明智光秀
明智光秀 ????~1582年7月2日
人生前半の記録が少なく分かっていない部分が多い人物。
出身は美濃国(今の岐阜県)はじめに美濃の戦国大名斎藤道三に仕える。
しかし、道三が息子との争いに敗れると、道三側だった光秀は一家離散となり浪人になってしまいました。
その後、越前の朝倉義景に仕えますが足利義昭が朝倉義景に亡命してきた後に足利義昭の家臣になったといわれています。
朝倉義景には上洛の意思がなかったので足利義昭と織田信長を引き合わせる提案を行い、取り次ぎ役を担いました。
足利義昭と織田信長の両方に仕えるという特殊な立場をとり、その教養の高さから重用されました。
信長京都上洛後は、信長から才能を認められ京都で仕置・諸政に従事しました。
出世を重ね、近江国滋賀郡5万石を与えられ琵琶湖岸に坂本城を築城し居城としました。
その後、丹波攻略の方面指揮官となる。その仕事の傍ら、石山本願寺攻撃や信貴山城攻め・荒木村重討伐に従事。丹波国の大名、波多野秀治を滅ぼし丹波一国を与えられた。
武田攻め従軍後1582年5月徳川家康の接待役を任されるが解任され、毛利征伐を行っていた羽柴秀吉の応援へ赴くこととなった。
1582年6月1日早朝に亀山城から出陣。
6月2日に謀反を起こし本能寺にて主君・織田信長を討つが、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、坂本城へ向かう途中、小栗栖で落武者狩りの土民の竹槍に襲われ重傷を負い、自刃。
享年55歳。
戦争においては謀略を得意とし、計略と策謀の達人であった。
築城にも造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主。
また、和歌や茶の湯を好んだ当時の文化人でもありました。
丹波と光秀
現代に至る亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い、城下町を整理したことで近代化が進みました。
光秀は内政に優れ、領民に慕われていました。
京都府亀岡市や福知山市における城下町の整備や治水工事は高く評価され、現代でも亀岡光秀まつりや福知山御霊大祭など、光秀ゆかりの祭りが行われ、人々が光秀を尊敬していることがわかります。
愛妻家
光秀は愛妻家としても知られており、正室である煕子が存命中は側室を置かなかったと言われています。
熙子も光秀に尽くした女性で、光秀と結婚してすぐに斎藤道三が息子の龍興に攻め滅ぼされ、道三に味方した光秀は美濃を捨てて流浪します。
流浪中でお金のない光秀は歌会を催す資金がなく困っていると、煕子は自慢の黒髪を売ってお金を用立てて光秀を助けたと言われています。
ちなみに光秀の三女、珠(たま)が、細川忠興に嫁いだ、後の細川ガラシャです。
年表
1528年 | (諸説あり)美濃国の大名斎藤道三の家臣、明智光綱の子として美濃に生まれる? |
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1535年 | 父親が逝去、8歳で家督を相続。 |
1556年 | 斎藤道三に敵対した斎藤義龍に明智城を攻められ、一家離散、浪人となる。 仕官先を探して諸国を放浪、鉄砲術や和歌を学ぶ。 その後、越前の朝倉義景に仕える。 |
1565年 | 松永久秀と三好三人衆が13代将軍足利義輝を暗殺 足利義輝の弟、足利義昭が朝倉義景を頼り亡命。 ここで光秀と足利義昭が出会う。 |
1568年 | 朝倉義景には上洛の意思がないので足利義昭と織田信長を引き合わせる。 朝倉義景を見限り信長に仕える。 |
1569年 | 京都で政務を担当。近畿での戦で功績を上げ出世。 |
1571年 | 近江の坂本城の城主となる。比叡山延暦寺の焼き討ちに参加。 |
1572年 | 近江国滋賀郡5万石を与えられる。 琵琶湖岸に坂本城を築城し居城とする。 |
1575年 | 丹波攻略開始 |
1577年 | 丹波亀山城を攻撃、降伏させる。 |
1578年 | 丹波亀山城を修復着工。 |
1579年 | 八上城攻めのために丹波亀山城を拠点にする。 |
1580年 | 丹波を平定し信長から丹波一国(約29万石)を加増。 近江国志賀郡の5万石と合わせて34万石に。 |
1581年 | 正親町天皇も見物した京都御馬揃えの責任者を務める。 |
1582年 | 5月 毛利征伐のため、出雲国・石見国の攻略命令が下る。 6月 本能寺の変で信長自害。 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北。 坂本城へ向かう途中、小栗栖で落武者狩りの土民の竹槍に重傷を負い、自刃。享年55歳。 |